または影響力のつよい出会いなど

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10代は…
中学生時代 当時親友藤川さんとモード誌2誌交換愛読
高校時代 17歳 鶴田氏(現在ファッション界にてご活躍。当時から抜群のセンス)
モード学園時代 社会人女性田中さをと東京遊学

20代は…
妹ゆかり(現在山鹿の伝統工芸師)の油彩画モデルをし、それが受賞された一連の出来事。私は黒猫田中と浴衣姿。
仕事で陶芸作品に触れ続けたこと。丸尾焼、蔵々窯、山幸窯、他
三味線を愛用し名曲に触れ続けた日々でもありました。
義弟の正文さんに絵画をしばらくの間習いました。正文さんは独立展の会友でした。
その間絵を2度目の出品ができました。女流絵画展入選できました。

30代
某オーディオと絵描きで著名な片氏を知り当時ショップへついでの際来店多く、絵画や考え方について学ぶような事がありました。
仕事場に霊能者という14歳の当時翔という女性、常連のお母様と度々来店、霊獣の卵授け私を守ってくれると発言し私は喜んで信じました。

日舞の〆太郎先生を知り習った事がありました。先生の芸術性は極めて高いもので私の憧れは最大レベルでした。ちなみに先生は普通に年配の女性でしたが芸術として群を抜いていました。その頃魯山人陶説を読んで感動していた私は、先生にも読んでもらって感動をシェアする事ができそういう時間が当時の私の最高の喜びでもありました。

仕事場で工芸デザイナー佐々木氏と出会いホームパーティーによく招かれていました。
下田氏に出会い大きく癒されたりその後の人生に強いレベルの切磋琢磨がありました。
下田氏は当時自宅の豪邸の岩風呂の大きな壁面窓に自分で模写したアール・ヌーヴォーの女性を浮彫りにしていて、武蔵美教授の女流画家の客船飛鳥で個展の際に展示したしかも海外で受賞している油彩画50号を250万で購入しており部屋に飾っていました。
私の絵は、50代後半に以前描いていた油彩画を50万の価値があると自ら言い買い続けてくれました。(私は2000年からその絵を超えたいと思っていたのですが。少し近づいた次第です)
詩人の由紀さんが仕事場によく来店され、私がメンタル弱って詩の朗読を頼むとして頂けるという夢のような構図がありました。
結婚式でも朗読してくださり
当時の家のギャラリーカミユギフトギャラリーでも朗読して下さいました。
ジョンレノンのイマジンでした。

陶芸を許斐さんにひと月習いました。そこで人形2体が自宅で出来あがり教室でもアイデアが出せて有意義でした。蔵々窯 リンクはすべてのちほど。

三味線は24歳から約10年ほどはほぼ虜でその道に進めたら進みたいくらいでした。
この挫折感を補うものは絵画しかなかったんでした。(三味線の影響力の最大は国宝の亡今藤氏←とはいえCDのみ、その後直接習っていた元芸者さん(野田先生)の家ではカセットテープやビデオでも聴いて最高の憧れでした)
日本画の先生とニットブローチの先生と友禅染の先生にレクチャー受けました。

パワースポットの先生に出会い絵画をもう一度やりたいと思いました。

40代 

清貧と言える時代同じく清貧の某有名画家の娘さん三雪さん(織物作家)と励ましあいました。この頃なんとか仕事を自分で作ろうとレターセットなどを仕事にし始めました。
東京の染め物を教える着物をつくる先生(花想容)に習いました。絞り染でした。
10代の知人の活躍にも触発されました。

50代

好きな人が出来ましたが、色々なことがネックであり全てにおいて一般的でない私は一般人に添うことができず絵のほうも挫折気味になりました。
どのレベルまでやりたいかについては失恋を上回るレベルという意味といえて、その点では、やはり初心にかえる意味にいきつくような、ある意味つらい出来事をすこし長い間経験しました。

当時健康不良気味な友人との出会いがあり、仕事においていろいろと模索する原因にもなり、またそれが、それなりに大きな励みにもなりました。

応援して頂いている方はいると思いますが
現在の応援者は最後の友人と下田氏とパワースポットの先生がつよく思い浮かぶところです。

それから、50代後半にヒーリングを自然に行うようになった頃見えないものとの交流がありましたが、見えないことですし説明がむつかしいので詳細は語らないことにしようと思います。
ですがそれはとても有り難く力づけたり導くような性質のものでした。